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西村社長のコラム100
Angelo's BLOG

 

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2008年2月にアントワーヌ・プレジウソ、ドゥ・ベトゥーン、タバー、I.T.A.の四ブランドの発表会を六本木の泉ガーデンのレストランを貸し切って行った。 それまでショパールなどでお付き合いのあった小売店や百貨店、百貨店のテナントの方々を全国からお呼びし、銀行やマスコミの方々をお招きし、各ブランドのほぼ全商品を集めて展示した。 我々もショパールでお付き合いがあったとは言え、全く新しいブランドに対してどのくらい受け入れていただける物か、少々不安もあったのだが、当日はメーカーからも来日して下さり、新しい取り組みに対し我々サイドだけでなく、直接メーカー側にお客様からの要望を伝えることも出来た。 お客様からの評判は中々よく、商品そのものだけでなく、我々が取扱を始めるなら、是非一緒に育てましょうという暖かいお声も随分頂いた。 その日とその後の交渉で、相当数のお店が取扱を決めて下さり、予定していた夏前のデリバリー時は計画通りの数のお店でスタート出来そうな状態であった。

業績の良い頃は銀行からの貸し出し金利もプライムレートであったし、バブルの頃からゴルフ場をやらないか?不動産投資をしないか?等々、随分色々と話しは頂いたが、本業に関連の無いことは行う気がなかったので、皆お断りした。 元々商品取り入れの決済用に、年間予想取り入れ額の半分ぐらいは為替予約をしていたのだが、その内、本業に関係する為替関連のデリバティブ商品の案内が各銀行からもたらされた。どうせ予約するなら単純予約でなく、よりレートが良い商品をと薦められ、最初はお付き合いもあり、少量だけ購入したのだが、確かにレートは単純予約より大分安く予約が出来る事から、徐々に単純予約から商品に、その量は増えていった。 ショパールがなくなり、新ブランドの市場がしっかりと形成されるまで、営業利益はまず見込めないことから、それまでの数年間は営業外収益の為替で利益を出し、その間にブランドを育てる方針を決定した。

2008年9月、アメリカの投資銀行であるリーマンブラザースが破綻し、それに続く金融危機で、世界中にリーマンショックが起こった。 リーマンショックによって日本の株価は1月余りで半分近く下がり、ドルが、ユーロが暴落した。 我々にとって最も影響が大きかったのは、四ブランド発表会で新しいブランドの導入を決めて下さった各店舗の皆様が、売上の急激な低下により新しいブランドを始める余裕がなくなってしまい、特に本来ならリーマンショック前には最初のデリバリーが始められているはずが、I.T.A.以外のブランドが全てデリバリーが遅れ、10月になってしまったことから殆どのお店で取り扱いの延期や中止になってしまった事だった。 更に大きな影響はユーロが暴落してしまったことから、為替のデリバティブ商品が大きく逆ざやとなり、更にショパールの輸入業務がその時点でショパールジャパンに移ってしまう事から、決済業務用でなく、単なる為替取引商品となってしまい、月々大きな差損が発生した事であった。

結果的に大きな損となってしまった為替予約であったが、同時にそれまで営業的に苦しい時も給料をきちんと払え、夏冬のボーナス、期末ボーナスの原資になっていたことも事実で有った。 営業利益からでは当然ボーナスも一切出せないだけでなく、給与カット等も含め考えなくては成らない状況でもあった。少なくともリーマンショックまでは会社にとって大きな利益をもたらしてくれたことも事実で有り、社員の生活を支障なき様支えていたのも事実であった。 その推進役の経理部長が最終的に社内に行き場もなくなり、結果的に会社を去ることになってしまったのは、大変残念であった。 為替の問題は貿易に携わる限り必ずつきまとう問題ではあるが、銀行からの話しに安易に載ってしまったこと、簡単に利益を計上出来てしまったことから本質の部分の改善が遅れてしまったことになったのは大きな反省点だと思っている。

 


古今東西、為替の未来の推移を予測するのは、株価と同じでその専門家にとっても決して安易なものではなく、サブプライムローンからの流れで、ある程度リーマンショックの様な破綻を予測していた人もいたようだったが、これほどまでの大きな影響を及ぼす事を的確に予想出来た人はそういなかったのでは無いかと思う。経済的なショックは予想できても、為替に関してこれほどの円高になってしまうことは完全に想定外であった。実際には円高と言うより、ドル安、ユーロ安、ポンド安で、経済的に円高になる要素は余りないにも拘わらず、他の主要通貨の方がもっとマイナス材料が多いという、日本経済が良いからでなく、あくまで他との比較の問題の円高なので余計質が悪いのだろう。 殆どの銀行、経済研究所、その他の専門家の意見でも、それまでの推移からも当分の間はユーロ、スイスフランに対しての円安傾向は続くという意見が大半を占め、それを信じてしまった恐さを改めて感じた。

新しい体制で、営業を中心の新しい組織を作りあげるべく、新たなスタートを切ることになった。 私自身は会社を離れ、いままでは本業のサポートを中心に行っていた別会社である、この美和に専念する事になった。 それまで営業の責任者であったC君を新しい社長としてお願いし、現在テナント業務を行っている全国の百貨店に加え、新しく出来るJR大阪駅の三越伊勢丹に輸入時計、国産時計、修理部門を全部併せた形でのテナント業務を引き受ける事になった。 同時に代理店として新しいブランドと交渉し、ブランドを日本市場で育て上げる業務を行う事も継続していくことも決定した。 決して楽な時期では無く、高級時計販売も一部を除いては好調とはとても言えないが、新体制には頑張って一日でも早く社業が順調に推移していく事を心から願いたい。  

元々一新コマースと美和という会社は昭和40年から45年に父が本業をサイドからサポートする業務や、時計以外の業務を行うことを目的として作った会社であった。サポート業務としては、保険代理店として動産保険や、不動産管理、サーバー管理・メンテナンスなどを行っていた。最初は父が代表を務めていたが、その後昭和51(1976)年に私が代表に就任した。 定款には相当いろいろな分野を網羅しているのだが、まだ私が学生の頃に六本木で寿司屋をやった事もあった。だた余りにも店長に任せっきりにしてしまった為、数年で閉めざるを得なくなったそうだが、これは父もそんなに本気で飲食店経営をしようと思っていなかったのであろう。 その他、以前は化学製品の輸入販売を行ったり、広告代理店業務、セールスプロモーションとして新聞、雑誌等への出稿やプロモーションイベントの企画なども行っていた。

創業後、一新コマースは英国から工業用気化性防錆剤(さび止め)を輸入し、主に三菱自動車、本田技研工業という自動車会社がノックダウン生産で部品を海外(主にオーストラリア、ニュージーランド)に送る際に使って貰っていた。 それ迄、部品を海外に送る際の錆止めの方法は、プールの様な施設を作り、そこに油を張る。そこで部品を油漬けにした後1ヶ月ほどかけて船で現地へ運び、陸揚げ後油を落とすために、同じ様なプール施設を作り、そこで油を落とす処理をしていた。扱っていた防錆剤は気化性で使い捨てカイロのような形で小袋に入っており、部品を包んだ後、その内側に袋を貼り付けるだけで数ヶ月の防錆効果があることから、施設が一切必要無くなり、大幅なコストダウンになることから随分注文を頂いたが、残念ながら部品を海外に運んで現地で組み立てるというノックダウン生産そのものが無くなり、殆どが現地生産になってしまったので需要そのものが無くなってしまった。

ある時、昼飯を食べるために銀座を歩いていると、小学校から大学までの2年先輩で、当時ホテルニューオータニの会長の秘書のような立場で活動していたK氏と偶然あった。その時にホテルの新館のロビーフロアーにある一角で、当時社史展示室のように使われていた場所に、会長の希望もあり時計のショップを誘致したい意向があり、やってみないか?という話しになった。 本当に偶然始まった話しだったのだが、直ぐに現地を見てお引き受けすることになった。 実はその場所は元親戚が宝飾品の店を開いていた所で、非常にデザインも良く、作りもしっかりとした什器が使われていて、それらもそのまま使える事が判り、 パテック・フィリップを中心にショパール、ロレックス、後にはI.T.A.やタバーなども加えた時計ショップになった。 一時は固定客もしっかりと出来、コンスタントに売上も上がっていったのだが、残念ながら徐々に販売量も落ちてしまい、リーマン後の2010年にはクローズし、美和のWEBショップや販売時の店名としてAMITYの名前は残る事になった。

オランダに本拠を置くバッグメーカーであるHENK社の日本進出に関してビジネスコンサルテイングを実施すると同時に、販売そのものにも協力した。 そのバッグは車輪と持ち手の付いたいわゆるトローリーバッグと言われる種類だが、価格は最低300万円する超高級バッグである。 全てオーダー式で手元に用意した各種、各色の革や木、チタン、カーボン等のサンプルを自由に組み合わせ、数百種類の組み合わせの中から自分のカスタマイズしたバッグを注文できるもので、その持ち手や車輪の拘りが半端ではなく、凝りに凝った作りの商品であった。 基本的に自家用ジェットで旅する人をターゲットにした非常に狭いマーケット狙いだったのだが、一般の販売も踏まえ、大きさを国際線の持ち込み可能の最大のサイズに合わせていた。しかしながら9.11以降航空各社の基準が厳しくなってしまい、従来持ち込み可能であった大きさも不可になってしまった。 価格も含め、日本では中々販売に結び付ける事は難しく、実際販売先は殆ど外国人であった。