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西村社長のコラム100
Angelo's BLOG

 

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私の父が、時計の輸入を始めたのは、父の手先が不器用だったことに大いに関係している。 母方の祖父が大阪で修理中心のいわゆる「町の時計屋さん」をしていた。 父は職業軍人で、近衛兵で終戦を迎え、女房とその時もう生まれていた私の姉を食べさせる為に何かを始めるにあたり、母は一人っ子だったので、跡継ぎがいない義父の時計屋さんを継ぐことも考えた。しかし、自分が余りにも手先が不器用だったことから、それは断念せざるを得ず、平和になって外国との貿易が出来る様になったのだから、スイスの優れた時計を輸入して扱おうと決めたのが始まりだった。 もし、父の手先が器用だったら、きっと義父の店を継ぎ、私も時計職人か、職人を断念してコンビニをやっていたのではないかと思う。

当時日本は戦後の復興にあたり、外貨を獲得する輸出こそ国の復興に繋がるという考えが蔓延していて、外貨を減らす輸入などもっての外で、国賊呼ばわれされていたそうだ。 実際、今の様な自由貿易が許されていなかったので、物を輸入する為にはまず、外貨の割り当てを受けなければならず、例えば5,000ドルの物を輸入したければ、5,000ドルのドルの割り当ての権利を獲得し、その5,000ドルをもってLC(信用状)を銀行にお願いして銀行の支払保証の下メーカーに交渉をしなければ、メーカーも信用して商品を売ってくれない様な状況だったそうだ。 その当時は代理店制度など無かった時代で、各々がそれぞれのメーカーとLCをもって直接取引をするのが普通で、実際父はオメガ、バセロンなども直接仕入をし、当時のシーベルヘグナー社ゴーチェ社長やバセロン社ケトラー社長とも直接交渉をしていた。

父が会社を立ち上げて暫くたった頃、スイスにパテック・フィリップという大変素晴らしい時計があることを知り、情報を得ている内にどうしても欲しくなった。 そこで、通訳だけを連れて単身ジュネーブのパテック・フィリップ社に乗り込み、当時のアンリ・スタン社長と直談判をしたそうだ。 スタン社長は「戦争で負けた日本から何か訳の判らない輩がやって来た」と驚き、父から聞いた話だと、恐らくこれだけの数量を買わなくてはならないと聞けば諦めるだろうと、スタン社長から言われた数量を意地になって購入してしまい、しかもその全量を半年の内に売ってしまったそうだ。 そんな経緯や、お互いの「人となり」が気に入り、言葉は通じなかったが、戦争を経験し、あの時代を生きた経営者だけが分かち合える感覚で通じ合い、その後も親交を続けていくことが出来た。 後年、自宅でファミリーパーティを開き、アンリ・スタンやパテックの愛用者でいらっしゃった故古賀政男氏もお見えになった前で、スタン社長が父の股引とシャツを着てドジョウすくいの様なダンスをした写真が残っている。  

日本全体が、敗戦の中から立ち直り、軍用特需などから新しい産業や仕事が生まれ、人々の暮らしにも若干の余裕が出来る時代になった。その後日本は高度成長が続き、商品が確保出来れば売れるという「行け行けどんどん」の時代が訪れた。 消費は美徳とされ、本来生活必需品でない高級時計もその波の中、順調に販売数を伸ばしてきた。 当時時計というと機械時計であり、各メーカーがしのぎを削っていたのは精度競争であった。月差何分という数字を少しでも少なくする為の技術競争が生まれ、それが又新しい技術を生むこととなる。 機械時計の世界ではほぼ高級品=高額品=精度が高いというのが当たり前であり、使う部品が良くなれば精度があがり、その代わりに高額になるというのが当たり前であった。  

機械時計の精度競争の中、アメリカのブローバ社は音叉を使った電池式腕時計「アキュトロン」を1960年代に製品化した。月差1分以内という当時最高の精度を誇った製品で、一定サイクルで作動する音叉を超小型化して腕時計のムーブメントに組み込んだ画期的メカニズムを備えていた。 会社はブローバ社と代理店契約を結び、日本でブローバアキュトロンの販売を開始した。初期のモデルは文字盤が透明で、中の電子モジュールを見せる事で先進性を表に出したモデルだったが、非常に好評を得て、全国300店のブローバファミリーストアで販売された。 東京オリンピックが開かれた昭和39年に東京八重洲に本社ビルが完成し、屋上にはブローバのネオンサインが輝くことになった。 当時はビルの落成に伴ってアメリカからヘンシェル社長が、重役のボーキン氏と共に来日し、まさに東京オリンピックが開催されている真っ最中にビルの落成式兼ネオンの点灯式が行われた。

非常に順調に推移してきたブローバアキュトロンであったが、ブローバ社は更に大きく売上を伸ばすべく、選んだパートナーがシチズンであった。
彼らはアキュトロンの技術をシチズンに与え、ブローバ製のアキュトロンとシチズン製のアキュトロンで世界中のシェアの多くを獲得するべく動き出した。
彼らは当時の販売量の4倍相当にあたる年間販売個数を策定してきたが、当然価格の相当安いシチズン製のアキュトロンが巷に溢れればブローバアキュトロンの市場も影響を受ける事は必至であり、我々との新しい取り決めは平行線の儘同意に至ることはなかった。

当時ブローバ側の通訳としてやってきたC氏はむしろブローバ側のやり方と条件に納得できず、ブローバとの契約が終了した後、我が社に入社して,その後40年以上の長きに亘り会社の対外国渉外担当として活躍した。

ブローバとの代理店契約の終了に伴って、当時売上の過半数を占めていたブローバが突如無くなる事になり、今後の会社の方向性を定める為に重要な決断をせざるを得なくなった。 業界でも大丈夫かと噂になったらしいという話しも父から聞いている。 ブローバの取扱中止に伴って、全国のブローバファミリーストアは自然解散状態になったが、その中で高級品を扱う土壌のあるお店と、百貨店を中心に高級品路線に方向転換する事となった。 パテック・フィリップ、ロレックスを中心にIWC、バセロン・コンスタンタン(当時はコンスタンチンといっていた)、オメガ、などの扱い量を大幅に増やし、リーベルマンウェルシェリー、シュリロ貿易、シイベルヘグナーなどの国内の各代理店の協力を得た路線変更によって危機を脱する事が出来た。  

パテック・フィリップの販売代理店として、またロレックスの特約店として我々がまず整備したのはサービスセンターの充実であった。 現在では各代理店、日本支社とも方向性は少し違ってきているが、当時はサービスセンターというのは、アフターサービスによって利益を得るのが目的ではなく、あくまで顧客サービスの為に整備すべき機能であると考えていた。 その考えの下、パテック・フィリップに対し、永久保障制度を導入した。これは顧客サービスであると同時に、パテック・フィリップの品質に絶対の自信が有ったので可能になった制度だった。10数年ほど続き、顧客に大変好評戴いたこの制度も、関係省庁からの指摘で、永久としてはならないという達しがあり、複数年保障に切り替えざるを得なかったが、役人が顧客を喜ばせることより、文言の揚げ足取りに一生懸命かの良い例だろう。

昭和40年代に入り、三越百貨店の当時の岡田専務と父は何故か非常に馬が合い、大変懇意にしていただいていた事も有り、特に三越日本橋本店に大きくパテック・フィリップサロンを作ることとなった。その後、岡田氏の社長昇進によって、更に関係は強化され、日本一パテック・フィリップを販売する店としての三越本店の地位を築いた。 因みに岡田氏が自動車事業部を店内に作り、新車だけでなく、文化的意味合いもある古いロールス・ロイスなども扱っていたのだが、その最初の顧客として父は1964年製のロールス・ロイスを三越から購入した。 岡田氏が社長をしりぞかれた時に、岡田氏が携わった殆どの事業は解体されてしまったが、パテック・フィリップサロンだけは顧客との強い結びつきもあり、そのまま残ることとなった。 会社の社員も三越に派遣される社員は皆長く留まり、顧客との信頼関係を築きつつ、現在もその精神が引き継がれている。

三越ではあくまでパテックサロンとしての展開であったが、銀座、上野、名古屋の松坂屋では輸入時計売り場の殆どのブランドのテナントとして売り場作りをする事になった。 特に営業の新入社員として入社すると、東京の社員でも大阪の社員でもまず東京で研修をし、その後銀座の松坂屋で売場で販売をするというのが慣わしの様になっていた。松坂屋の売場にはベテランの社員をチーフとして最低3〜4人の社員を出していたので、先輩の接客術を学ぶにも大変良い機会であった。 その後、伊勢丹本店では自社ブランドのテナントとして、銀座松屋では松坂屋と同じように殆どの輸入時計全体のテナントとして、天満屋各店では輸入時計だけでなく、国産も含めたテナントとしてリテール部門を強化するに連れて、日本の各ブランドの代理店との付き合いも深くなっていった。