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西村社長のコラム100
Angelo's BLOG

 

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日本人は限定商品が大好きである。そして限定商品は回転が良い。 古くはパテック・フィリップでステンレス製の裏リューズモデルを発売したり、ショパールでは創立125周年記念に125万円のハッピーダイヤモンドのブレス付モデルを皮切りに、百貨店のxx周年や、日本導入xx周年、あるいは現行モデルの文字盤だけをオリジナルにしたり、日本だけピンクゴールドのモデルを作ったりなど、何かと理由をつけて何十種類もの限定モデルを作った。 我々だけでなく、各社とも日本オンリーの商品を作り、いつの間にか限定商品だらけになってきた。 ただ、メーカーは基本的には日本限定商品を良しとしない所が多く、あくまでメーカーのカタログモデルを販売すべきだという考えが基本的にある。 そこで、今度はメーカー自ら世界限定xxx本というような限定モデルを発表するようになり、その1〜2割を日本で販売することが多くなる。  

代理店だけでなく、卸店も小売店も出来るだけ自社の在庫を販売することに最大の努力をする様になり、新しい取り入れは少しでも押さえる様になってくる。 営業の現場は売れる商品との判断で仕入をしたくても、本部から客注などを除いて、基本的に仕入を押さえたり、ストップさせたりする状況も発生する。 しかしながら百貨店のテナント業者は、売場にいつまでも同じ商品が並んでいる状況を続ける訳にもいかず、百貨店とメーカーや代理店の板挟みにあいながら、どうしても新しい在庫を持たざるを得なくなる。 また、メーカーの政策で、新製品発売時に注文分だけを出荷に割り当て、最初に注文をしないと、当分の間、その新製品は一切入荷しない状態にもなり、その分も在庫を持たざるを得なくなる。 こうして時計業界全体の流通在庫は大きく膨らむ事になり、一部の例外を除き、メーカーの日本支社も、代理店も、卸店も、小売店も、流通に携わる全ての会社が苦しむことになる。  

2004年頃だったと思うが、ショパールから日本でショパールマーケティングサービス(仮称)という形で、マーケティング、宣伝を全世界統一する為の会社を作りたいという相談があった。名前の様にマーケティング、宣伝活動と、自前で路面店のブティックを何店か持ち、我が社のブティックと並行して活動をしていきたいとの希望であった。 宣伝活動も我々が行ってきた1.5倍から2倍の予算を使い、自分たちで作る新しいブティックのみならず、一般流通での販売の向上を目的とするもので、我々も全面的に協力する事になった。 しかしながら、その頃のスイスのメーカーの動きを見ると、各社とも完全な日本支社を作り、代理店政策からの変換がトレンドにもなっており、我々もそれに備える必要も感じ始めることになる。 会社名もマーケティングサービスではなくジャパンとしたいとの話しがあり、それまでショパールとの契約上競合する可能性のあるブランドの代理店にはならないとあったのだが、交渉の末、その部分は外す事となった。

2007年、ショパールジャパンが設立された。 以前我々の銀座ブティックのあった銀座二丁目のビルの建て替えで、銀座七丁目にブティックを移転していたが、そのビルの建て替えの終了と共にショパール自身のブティックがオープンし、そのビルの上階にショパールジャパンも入ることとなり、銀座に我々の運営の七丁目と、ショパール運営の二丁目の二つのブティックが出来る事になった。 最初は営業的にはブティックのみの方向だったのだが、次第に百貨店内のショップ、輸入業務、ホールセールも全てショパールが行う事になり、パテック・フィリップの時と同じようにリテールショップとしてのショパールの取扱になった。 我々の銀座七丁目、大阪日航ホテル、福岡天神の三つのブティックの内、福岡はクローズ、大阪はパテック等を含めたマルチブランドの時計店に変更し、その時点では銀座だけが残ることになる。

 


パテック・フィリップが無くなった時は、利益の落ち込み額は十分ショパールの販売増で補える判断があり、実際会社の全体の業績には大きな影響はなかった。 しかしながら、その結果ショパールが売上、利益に占める割合が大きくなり過ぎてしまったことは事実であろう。 その後、ショパール日本支社の話しが出た当初も、マーケティングの為の会社という事もあり、営業的にショパールがなくなることは考えていなかった甘さが、対応が遅れてしまった原因の一つだろう。また、他のブランドの代理店契約も、契約を変更してまで行うより、ショパールをより大きく伸ばそうという事に注力するつもりであった。 その後、ショパールがなくなるという事が決まった時点で、従業員の数も大きく減らし、会社の規模を小さくする方法もあっただろう。 ただ、それまで会社都合で人をやめさせた事がほぼ0であった事への拘りが大きく、その時点での社員160名全員(とその家族)を何とかしたいという気持ちが強く、今の社員規模をキープする為にも新規ブランドを育てることに方針を決定した。  

ショパールの代理店でなくなることにより、我々の活動は百貨店のテナントとしてのリテイル部門が殆どになってしまったが、元々会社の遺伝子はブランドを自ら育てる輸入代理店業務であり、ジャパンが出来る前のショパールとの契約の変更時から新しいブランドを探し始めた。 外貨割当制の時代から、直接スイスの各メーカーからの輸入に始まり、ブローバ、パテック・フィリップ、ショパール、ミシェル・エルブラン、チャンドラー、PPP、エリオット以外にも現在のファイリップ・シャリオールの前身であったフィリップ・ダーシー、キュピラール、その他のスイス、フランス製の腕時計、フランスのクロックメーカーなどの代理店を行ってきた。 ショパールも我々がパテック・フィリップを扱っていたことが、各取引先で短期間の内に大きく伸ばすことが出来た大きな要因であった。また、取扱の初期は利益を度外視して、年間取り入れ高と同じくらいの宣伝、販促費を投入した。

当時、独立時計師とても良い時計を作るアントワーヌ・プレジウソが、それまでの日本の代理店と余り活発に取引をしていなかった事も有り、新しい代理店を探している情報が入った。また別のスイス関連の機関を通じて問い合わせも入り、早速アントワーヌ・プレジウソ社と連絡を取り合った。 プレジウソ氏と会ったが、その時は時計の話しより、時計関係以外の話で彼の人柄に触れ、作品もとても気に入り、代理店となることを決定する。 彼はフランク・ミューラー氏と同じ時計学校の同期で、彼ら二人だけが抜きんでた成績だったそうで、プレジウソ氏は卒業時に、父親の普通のロレックスを改造しパペーチュアルカレンダーにしてしまった有名なエピソードがある。 ミューラー氏は直ぐ自分ブランドを立ち上げ成功を収めるが、プレジウソ氏は時計修復の道を選び、パテック・フィリップにも在籍し、ロシアのクレムリン宮殿に招かれ、宮殿の中にある時計の修復にもあたった。その後、自分のブランドを立ち上げ、同時にハリー・ウィンストンやブレゲの依頼で超複雑時計も製作している。

その頃、複雑時計だけを製作しているドゥ・ベトゥーンというメーカーの話しも入ってきた。 丁度バーゼルフェアの時期にバーゼル市内の川にボートを浮かべ展示会をしているという事で、バーゼルフェア時に初めてそのボートを訪ねた。 ボートといっても豪華な客船で、中は全てウォルトナットに囲まれた雰囲気のある船室で展示会は行われていた。 社長のデビッド・ザネッタ氏と時計師のデニス・フラジョレ氏がコンビを組み誕生したメーカーで、多くのモデルにブランドの特徴でもある、ムーンフェイスに立体的な月を使用して、見ているだけで引き込まれる世界感を持った、他のどのメーカーの製品とも似ていない独特の時計であった。 以前は安い(と言っても100万円台だが)普通のデザインの時計も製作していたが、その後は全て自家製のムーブの複雑時計だけを製作していた。 ザネッタ氏とも直ぐ馬が合い、すんなりと代理店契約をすることとなった。

丁度バブルの頃に日本で相当販売されていたタバーというブランドが有った。 その時からの繋がりで,会社のある役員のところに代理店としてやってくれないか話しがあり、最初は断るつもりであった。 社長のアンドレ・メジアス氏が来日し、コレクションを見、話しをして本当に驚いたのだが、これほど日本市場の事を理解している西洋人に初めて会った。 日本の流通の特殊性を良く理解しているだけでなく、彼の理解している日本人の好みも的確で、その為に新しくモデルも起こしたり、サイズ変更、日本での定価の設定に合わせたモデル開発なども含め、全てをオリジナルの様に大きく改良してもらえる余地があった。 バブルの頃の商品が市場には未だ残っており、その点が引っかかってはいた事もあり、断るつもりでミーティングを持ったのだが、有る意味、自分たちの工場として機能させる事も出来そうな部分は、今までの単に輸入代理店としてだけでなく、相当魅力的で有り、結局代理店になることを決断する。

更にイタリアのミラノに本拠をおくI.T.A.という比較的価格帯の安いブランドの話しも舞い込んだ。 今まで扱ってきたスイスのブランドたちとは明らかに違うジャンルのモデルであったこともあり、営業部員の反応はイマイチであったが、イタリアテイスト一杯の楽しい時計で、直ぐに代理店になることを決定した。 ミラノの本社を訪ねて、そこで見た新製品が素晴らしく、自分でも直ぐにでも腕に付けたいモデルであった。最初に日本で見たモデルは側がポリカーボネイト製であったことも営業部で気に入らなかった理由のひとつだった様だが、この新製品はオールステンレス製であり、高級感もあった。 時計輸入協会の理事会で腕に付けていったら、他の理事から200万円ぐらいですか?と訊かれたので、1/10で売ってあげると答えたが、その時計は7万円ぐらいであった。 その理事の会社でその後多くのI.T.A.の取扱をして下さったのも、その時の印象があったからかもしれない。