WEB製作
iPhone/iPad用カタログアプリ
オークションセールスサービス
トレーディングサービス
 
 
西村社長のコラム100
Angelo's BLOG

 

コラム目次へ

ロンドンに8ヶ月程滞在したあと、ロンドンで手に入れた車に荷物を詰め込んで、スイスのローザンヌに移動した。
途中パリで一泊したのだが、当時フランス車以外だと結構悪戯をされるという話しを聞いていた。まさかと思ったが、その一泊したホテルの前に路上駐車をしていたら、明らかにトランクの鍵を無理矢理こじ開けようとした跡を見つけ、ちょっと唖然とした。当時はフランス人の英国嫌い、ドイツ嫌いは相当なものが有ったようで、英国ナンバーを付けたドイツ車だったので、格好の標的にされたのではと思う。中国で日本バッシングで日本車にのった人は中国人でも襲われて車を傷だらけにされたニュースがあったが、その時の事を思いだした。 ヨーロッパ内をそうやって車で移動していると、日本では絶対にあり得ない、陸続きで色々な国が隣接していて、頻繁に国境を越えるという事を改めて意識するようになった。

パテック・フィリップの当時のフィリップ・スタン社長からの紹介で、ローザンヌにあるCFHというところで、次世代の時計業界の経営者向けの2ヶ月のセミナーに参加する事になった。元々は小売店向けのセミナーなのだが、店の飾り方、接客、人の育て方、アカウンティングなどを学び、教室での授業だけではなく外に出ての実地訓練も多かった。高額品に関しては、日本では外商販売が多く行われているという話しをすると、外国には無い販売の方法なので、皆興味を持って聞いて貰えた。もしかしたら何人か自分の店で外商セールを始めた人がいるかもしれない。そのセミナー内容だけでなく、スイス、アメリカ、オーストラリア、英国、ドイツ、スウェーデン、ノールウェイ、フィンランドなど各国の若者と一緒に学べたことがとても良い経験になった。 そこで日本にいては中々判らない各国の事情や考え方の違いも直接耳にし、目で見ることが出来たのも大きな財産になったのではないかと思う。

パテック・フィリップ社と、前年に代理店契約を結んだショパール社の紹介と工場見学する為に、約30名ほどの日本の小売店経営者を中心としたツアーが組まれ、飛行機嫌いの父も含めヨーロッパにやってきた両社ともジュネーブに本社があるが、ショパール社はドイツのフォルツハイムにも大きな工場をもっていた為、まずドイツに入り、工場でショパール社が用意してくれた鼓笛隊の歓迎を受け、バーデンバーデンの温泉地や黒い森といわれるシュヴァルツヴァルトを巡り、その後ジュネーブで両社の工場を見学し、記念夕食会などで大きな歓待を受けた後、パリ経由で帰国した。私もドイツで合流し、最後のパリまで同行したのだが、こういったツアーには慣れている筈の参加者の方々からもとても良い評価を戴いたツアーで、その後何十年経っても、参加された経営者の方々とお会いする時に、そのツアーの話しで思い出に花を咲かせることが出来た。

CFHのセミナーが終了した後は、ジュネーブに移り、アパートメントを借りてフランス語を学びながら、パテック・フィリップ社、ショパール社とコンタクトを密にとり、特にショパールのカール・フレドリッヒ・ショイフレ(現社長)とは年齢も近く、二人とも車、スキーという趣味の共通点も多いので、個人的にも大変仲良くなり、頻繁に彼らの家に泊まりに行ったりした。ロンドンでも、ジュネーブで一人暮らしをしているのなら料理も上手かろうと、何故か日本食を彼と妹のキャロライン(同じく現共同社長)に作る羽目になったり、カール・フレドリッヒの当時のガールフレンドその友達と一緒に出かけたり、メーカーとその代理店という立場でなく、本当に良い友人として、その後も付き合うことが出来た。 蛇足だが、今の大変有能なクリスティーヌという奥方を貰う前の、彼の付き合ってきた女性の殆どを知っている。

ジュネーブ滞在中、ショパール社とはわざわざ訪問という言葉を使わないくらい頻繁に行き来していたのだが、日本から役員が二人やってきて、一緒にパテック・フィリップ社を訪問した。その頃は前社長のフィリップ・スタン氏がまだ副社長の頃で、彼は学生時代スキーで、日本で言う国体の選手にもなったほどの腕の持主であった。 その頃は怪我の心配もあるので競技スキーは既にやめていたが、ジュネーブのレマン湖のほとりにある素晴らしい豪邸にある桟橋からヨットを湖に浮かべ、ヨットレースにも出場していた。スイスの時計メーカーの経営者は何故か車大好き人間が多いのだが、彼は車には余り興味が無く、安全に移動できれば良いという考えであったようだ。ただ、車、ヨットに限らず彼ら経営者は必ず本気で取り組んでいる趣味を持っていて、その分野では相当の見識があり、その事を人に語れる蘊蓄を持っている人が圧倒的に多い。

ミシェル・エルブラン社はフランスのブザンソンという山の中の村に工場があり、日本からの役員二人と共に訪ねる事になった。 本当に長閑な村の中にあり、ホテルも殆ど無く、紹介されたペンションは山の奥のまた奥にあった。ただそこは牧場の中で、朝はカウベルと鳥のさえずりで目が覚め、朝食には出来たてのパンと共に自前の牛乳とチーズが出され、その後もヨーロッパで美味しい朝食は沢山食べたが、今でもその時の美味しさは忘れられない。 社長のエルブラン氏は本当に田舎の気の良いお爺さんといった風貌の人で、フランス語以外全く話せなかった。うちの役員の一人も英語が駄目であったので、フランス語>英語>日本語、或いはその逆という二重通訳をしながらであったが、すっかり打ち解け、その辺りも都会で仕事をこなしているスイス人やフランス人とは違う暖かさを感じることが出来た。

ミシェル・エルブラン社を訪ねた時も、何故かショパール社のロルフがジュネーブから彼のメルセデスでビザンソンまで送ってくれる事になったのだが、このロルフは元アマチュアでレースもしていたぐらいの車好き、飛ばし好きで、スピードになれていた私は大丈夫だったが、後席の二人は後で生きた心地がしなかったと言っていた。 別の機会だが、彼がフランクフルトの空港からフロツハイムの工場までを、丁度1時間で送ってくれたが、フランクフルトを出て直ぐの高速で「フロツハイムまで200km」という標識があった。 年末に私が一人では寂しかろうとドイツの彼の故郷に招待してくれ、その村では日本人が余程珍しいのか、「ヤパーナ(日本人だ)!」と皆に指を差されながらお祭りに参加し、楽しい新年のカウントダウンを迎えることが出来た。 我々に取っては一番接する機会の多いロルフの存在がショパールそのものであった。

ショパール社は日本で代理店契約を結んだ1976年(昭和51年)の秋、モントレビジューというスイスの時計、宝飾産業の大きな祭典でハッピーダイヤモンドという新しいシリーズの時計を発表した。今までに無い新しい発想で、文字盤の上をダイヤが自由に動き回るデザインは当時業界に大きなショックを与えた。 実際ダイヤは周りを囲む小さなカプセルの中に入っており、そのカプセルは下側が盛り上がっている為に、点で接触しており、ただ横にずれて動くのではなく、回転しながら自由に動き回った。このシリーズは世界的に大ヒットとなり、後に多くの宝飾のバリエーションも生産され、ショパールの名を一躍有名にした。我々が扱いを開始した時点ではその新製品の情報は全く無かったが、タイミング的にもピッタリで、その後のショパールの展開に大きな力を生んだ。

ショイフレ一家は元々工場があるフォルツハイムの出身のドイツ人で、後に仕事上の必要性もあり、カール・フレドリッヒ、キャロライン兄妹はスイスに帰化するが、考え方や仕事に対しての取り組み方はとてもドイツ的であり、そういった点でも我々と考えが合いやすかったのでは無いかと思う。キャロライン・ショイフレは私がジュネーブに住んでいた頃は、まだ10代の学生で、ドイツ人らしからぬ日本人好みのとてもキュートな小柄な女性であり、ショパール社に入社後、日本に一人でコレクションを持って来日する事もあったのだが、日本で彼女のファンクラブが出来た。特に柏そごうと西武PISAでは彼女が来日すると展示会などの他に、彼女を招いてのファンの集いが開催され、女性物が多いブランドでもあり、ショパール大使として大きく貢献して貰えた。その後、彼女はショパール社の主任デザイナーとして多くの素晴らしい商品を生み出すことになる。

我々はよく、社内を称して一新ファミリーという名前を使っていたが、昭和50年代までは東京本社と大阪支店、デパートに派遣の社員を含め、年に一度夏に一ヶ所に集まり、懇親旅行が行われていた。浜松、伊豆あたりが多かったと記憶しているが、東京、大阪それぞれ野球チームを作り、東西対抗の野球大会が行われていた。今では、こういった行事に殆ど全社員が参加など考えられないが、当時は年に一度の楽しみとして、社員も社員の家族も参加し、野球組と観光組に別れて楽しみ、その晩に宴会を行い、一泊して帰って行くのが恒例であったが、こうした家族単位の集まりが、毎夏と取引先が参加するようになるまでの新年の年二回に行われていた。そこが一新ファミリーとしての仲間意識の表れだったのだろう。その後、東京ドームになるので後楽園球場がなくなる最後の年に、後楽園球場を借りて、スコアボード表示とウグイス嬢付きで、更に一新チームに巨人の2軍の選手を数人(内緒で)加えて試合をしようとしたが、残念ながら雨天中止になった。