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西村社長のコラム100
Angelo's BLOG

 

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ショパールはハッピーダイヤモンドシリーズが有名で、女性物のイメージが強かったが、ミッレミリアのスポンサーになるにあたって、毎年イヤーモデルとしてミッレミリア時計を提供し、一般にも市販することになった。 ミッレミリアの参加者はレース当日行われる車検にパスすると、ウェア、バッグ、沢山の小物、特製ミッレミリア携帯電話などと一緒にミッレミリア時計を受け取る事が出来た。 それぞれの時計には毎年約380台の参加車に「コンペティター1から380」迄の車のゼッケン番号と文字が彫られ、ゼッケン番号無しのモデルが市販モデルとして毎年限定数量で発売された。 カール・フレドリッヒは仲の良い元F1、ルマン24時間、パリダカールラリーなどで活躍したジャッキー・イクスと共にミッレミリアに参加し、ミッレミリア・ジャッキー・イクスモデルも発売されることになった。

1992年、日本で当時F1やミッレミリアを放映していたフジテレビの主催で、ラフェスタミッレミリア(ミッレミリアのお祭り)という名称で日本で初めてミッレミリアが開催された。 当時、ショパールのスポンサーの関係で、我々もこの日本のミッレミリアのスポンサーになることを決め、カール・フレドリッヒとジャン・アレジのその年のイタリアミッレミリアコンビがそのまま日本でも参加することになった。神宮外苑の車の展示スペースでのショパールブースでは、ジャン・アレジのサイン会を催し、パニック寸前の多くの人が来場した。 ラフェスタミッレミリアは1997年からは毎年のイベントとして現在も続いており、日本のクラシックカーイベントとしても最大の規模と人出、格を誇っているが、1997年から我々が、その後ショパールジャパンによってショパールのスポンサーは続いている。

日本のラフェスタミッレミリアにスポンサーとして参加することになり、毎年ラフェスタ特別モデルを作成した。 これは現行のミッレミリア時計から私がモデルを選び、文字盤を完全オリジナルで毎年考えたもので、競技の結果、優勝から15位にだけ与えられる特別時計で、順位が彫られていないモデルを少量(10本程度)だけ一般にも市販した。 イタリアでは車が車検に通りさえすれば全参加者がスタート前にミッレミリア時計を貰えるが、日本では15位以内に入らないと貰えないことからむしろ希少性が増し、参加者は如何にこの15位に入るかを目標に腕を上げる事となった。 通常のミッレミリア時計はバンドがゴムで、昔のダンロップのレーシングタイヤの溝のパターンが模様として付いているという凝った物だったが、私は敢えてそのゴムバンドをやめ、牛革にステッチが入り、昔のステアリングホィールのような丸い穴の空いたバレニアと呼ばれるベルトを選び、色も赤など特徴のある物を多く採用した。

ショパールはミッレミリアの他にも毎年カンヌで開かれるカンヌ映画祭のメインスポンサーとしても有名で、最優秀賞に送られるパルムドール(金の椰子)と呼ばれるクリスタルの中に金製の椰子が入った有名なトロフィーも製作している。 カンヌ映画祭では受賞式に参加の女優陣が皆ショパールの宝飾品と時計を身につけ、その担当のキャロライン・ショイフレにとって、一年で一番大変で忙しい季節だろう。 ショパールは毎年大がかりなパーティーを企画し、期間中は毎日夜中までカンヌの街中はスポンサーや映画関係各社のパーティで溢れかえり、この年に一度の映画のお祭りをカンヌの人々も海外からの参加者も皆心から楽しんでいる。 日本のアカデミー賞は、日本では映画の協会よりも各プロダクションの力が強いこともあり、受賞の女優陣にショパールを身につけてもらうべく、提供する場合も協会でなく、個々に折衝しなくてはならず、我々もその実現には相当苦労した。

自分自身車が大好きだった事もあり、ラフェスタミッレミリアには第一回から参加した。最初の数回は友人の車を借りて、その友人と一緒に参加をしていたが、参加車の中でも最も新しい1972年製造の車でもあり、その後、私もその友人もより古い車を手に入れて、別々に参加する事になった。 何回か参加している内に、カール・フレドリッヒからイタリアのミッレミリアにも参加する様に要請が何度かあり、ついに2004年に初めて参加する事になる。 本来なら300番以降のゼッケンになる年式の車であったが、ショパールのスポンサー権限で、ショイフレ会長とホセ・カレーラスの参加車の直後の200番前後の番号を貰う事が出来た。 しかもその年はミッレミリアの翌週にカンヌ映画祭、更にショパールがスポンサーをしているモナコヒストリックという、次週末に開かれるF1のモナコGPと同一のコースを使い、古いレーシングカーが本気で競い合うイベントがあり、ミッレミリア、カンヌ映画祭、モナコヒストリックという3つのショパールスポンサーのお祭りに続けて参加する事ができた。

ショパールは世界的に成功するにつれ、既存の販売店との取引だけでなく、路面店としてのブティックを全世界的に創る意向を打ち出してきた。 我々はまず青山一丁目にある、知り合いの会社のショールームだった場所を借りてブティック一号店をオープンさせた。 尤も、この場所はそれ程トラフィックの多い場所ではなかったこともあり、銀座で新しく店舗を探し、並木通りのイノアックビルに銀座ブティックをオープンし、青山から移転した。この時は殆どのブランドのブティックが晴海通りより新橋寄りの銀座5〜8丁目にあったことから、銀座2丁目を提案した我々の案に中々ショパール側の同意が得られず、恐らく銀座だけで100以上の候補地を見て回ったのでは無いかと思う。 その後、大阪のホテル日航の1Fに大阪ブティックをオープンし、更に福岡の天神西通りに福岡ブティックをオープンし、同時にその2階に福岡営業所を開設した。

ショパールはミッレミリア以外は男性コレクションを殆ど持っておらず、そのムーブメントも社外から購入していた。 しかしながら、カール・フレドリッヒはスイス時計のマニファクチュアとして自社製機械式ムーブメントの開発を推進し、1996年スイスジュラ山脈の麓にL.U.Cムーブメントの工場を設立した。 L.U.Cとは創立者のルイ・ユリシーズ・ショパールの頭文字で有り、創業時の時計の文字盤にはChopardではなく、L.U.Cと刻まれていた。 L.U.Cの名称はその頃の原点復帰という意味が込められ、本当に良いムーブメントをショパールの顔として育て上げるべく付けられた。 翌年、キャリバーL.U.C1.96という最初のムーブメントが完成し、そのムーブメントを載せたL.U.C1860(1860年は創業の年)モデルが発売された。 その後もクロノグラフや複雑時計を含め、沢山の新型ムーブメントが開発されていく。

パテック・フィリップでなくても、古くからの高級スイス時計の生産の仕方は基本的に受注生産であった。パテック・フィリップでは古くはビクトリア女王や、トルストイなどから注文を受け、彼らの為に時計をオリジナルで製作していた。 これは勿論大昔の話しではあるが、その後高級スイス時計ブランドはリファレンス番号毎に複数の時計を製作するようになり、全て手作業から徐々に機械化を進め、生産性を高めていった。 それでも例えばパテックの場合は、年間生産数を決める為に、まずキャリバー(機械)の何番を何個というように機械毎の製造個数を決め、その後それを入れるケースを製作していくというのが基本であった。 ところが販売個数が多くなり、工場が大きくなるにつれ、それでは生産性にも限界があり、個数を多く販売する為に新しい考え方が必要になった。

高級時計を販売する為に、一人の拘りを持った時計師がコツコツと一つの時計を作り上げていく時代から、大量に生産できる機械を導入し、メーカーが全世界的に一つのイメージをもった戦略を展開し、マーケティングによってユーザーがそのブランドを、モデルを選んで購入する、或いはメーカー側が流行を作り上げるというアパレルビジネス的な手法のアメリカ式マーケティングビジネスがスイスの大手メーカーの考えの基本となった。 それ故、外部から、特にアメリカ式マーケティングビジネスを学び、成功した人々を雇い入れ、新しい政策をうち出すようになる。 その戦略を推し進める為には現地が代理店ではどうしても限界が見えてくる。 従って、各メーカーは現地での代理店制から自ら現地支社を作る、日本であればxxジャパンを立ち上げ始める。 それによって、本社の命令一下、全ての政策が一本化して簡単に打ち出すことができ、よりコントロールがし易くなった。  

良い意味でも悪い意味でも日本の社会は欧米と比べて特殊である事を疑う余地はないが、欧米のメーカーと話しをする時にその「日本の特殊性」という事が話題になる。外商ビジネスなども、持ち回りの経費が掛かり、上得意に対して値引きが発生し、時間も掛かり、利益も少なくなる悪い政策だとはっきり言い切るメーカーもある。 単純に数字面だけを見れば一見正しく見えるのだが、日本においては多分に浪花節的な要素を持って人と人が触れ合うことが考え方の中心で有り、文化であり、日本に全て欧米式を持ち込んで成功するかはまた別の問題で有る。 一部確かに流行を上手に作り上げ、沢山の日本人がブランドや特定モデルを購入して日本中それらが氾濫する事も有るが、そういった場合、逆に飽きられるのも早いし、それこそが、他人と同じだと安心する日本人の特殊性を上手く利用した事に他ならないのだろう。