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西村社長のコラム100
Angelo's BLOG

 

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1989年(昭和54年)4月に消費税が導入された。 消費税導入前は高級時計(金やプラチナ製、或いは貴石の入った時計)は40%の物品税が課されていた。従って海外との価格差が大きくあるのも当たり前であり、メーカーもそこに対して意見を言うことはなかった。 それまでは各国の代理店にその国の流通は任せているのが普通で、基本的にはその国のことを一番判っているところがその国の事をすべきというのが、以前の考え方の基本であった。 しかし消費税導入により、税率が大幅に下がった事により、高級時計の価格が大幅に下がり、メーカーとしても海外との価格差、国際価格という物を論じられるまでになったことから、直接日本の価格付けに対しての意見を言うようになってくる。 更にそれらは価格付けのみならず、広報、流通政策全般にまで範囲は拡大していく。

短期的にみると消費税導入により高級時計の価格が下がり、売り上げは大幅に上がることになる。 しかし、その中にはむしろ先々への大きな問題点を内包していた。 国際価格により近づける為に、流通を全て白紙に戻し、WEBや自前のショップだけで輸入全量を販売するのでなければ、考えられる方法は、工場の出し値を下げるか、納め価格(下代)の率を上げるか、代理店が利益を減らすかしか方法がなくなった。工場は決して出し値を下げてはくれないし、下代を上げることは当然流通から猛反発がおこり、上げられても僅かであった。したがって、我々の利益を削ってメーカーの希望に添う必要が生じ、代理店としての利益が大幅に減少する事になる。 更に各メーカーはアメリカ式のマーケティング理論を中心に動き出していたので、広報にかかる費用は大幅にアップする事になり、売上は伸びても各代理店の利益は消費税導入前より減少し、メーカーからのプレッシャーは大幅に増加することになる。

諸外国と違い、その頃の高級時計の売り上げの殆どが百貨店に依るもので、更に百貨店の販売もその殆どが外商によるものだった。 実際某百貨店と高級品を中心に扱う専門店で調査をしたところ、パテック・フィリップの売上の95%が外商によるものという結果が出たこともあった。 外商員は時には顧客の旅行に顧客の費用で同行したり、顧客から数十万単位のものをプレゼントされたり、売り手、買い手という枠でなく、準家族の様な付き合いも多く存在した。今月の予算が100万円足りないと聞くと、品物は外商員にお任せで100万円分購入してくれたりという付き合いさえ合った。 外商員は必ずしも時計の専門家ではないので、時計の細かい説明よりも外商員の人そのものを信用し、付き合い購入して頂くケースも多々有った。 ただ、これはメーカーには中々理解できないようで、時計はキチンとブランドの特色を出した店内で、時計の専門知識のある人が、マンツーマンで説明して売るべき物という考えは今も変わっていないようだ。

日本全国の百貨店、専門店で多くの展示会、催事が行われ、その多くはホテル、レストラン等で多額の費用をかけて行われている。 年間300回以上大小の展示会に出品要請がきて、同じ日に幾つもの展示会が重なることもざらであった。 その為に輸入代理店は大量のストックを持たなくてはならず、単価が数万円の時計ならいざ知らず、百万円から数百万円の時計を展示会で満足の得られる数の陳列をする為に投資しなくてはならない額は半端ではなく、銀行からの借入金の殆どは在庫購入の為に使われた。 多くの大きい展示会は顧客来場を促進する為に、或いは来場された顧客を満足させることが出来る様に、芸能人に一日店長をお願いしたり、豪華な食事や観劇、お土産を用意したり、国内外のツアーを企画してその中で販売の機会を設けたりするなど、手を変え品を変え知恵の限りを尽くして展示会を開催した。

1989年(平成元年)、パテック・フィリップ社は創立150周年を迎えた。 私を始め会社から5人お祝いにスイスに行き、盛大に開かれたパーティーに参加した。 会長のアンリ・スタン、社長のフィリップ・スタンご夫妻、パテック・フィリップ社の番頭さん(後に社を去ることになるが)であった英国紳士然としたアラン・バンベリー氏を始め、皆勢揃いで歓待を受け、150周年の記念に発表になったキャリバー89というポケットには入らない大きさの超複雑ポケットウォッチの最初の1個を、自らジュネーブのアンティコルムのオークションにかけ、発売前からプレミアのつく大変な価格で落札された。 このキャリバー89はイエローゴールド、ホワイトゴールド、ピンクゴールド、プラチナのそれぞれのケースを各1個ずつ、合計4個しか製造しないと発表され、このオークションでの落札価格が他の素材のケースの価格の基本となった。

1985年のプラザ合意によって、急激な円高が進行し、1ドル240円前後だった為替相場が150円台まで急伸した。公共事業が拡大され、公定歩合が下がり、規制が緩和され、税金が下がり、富裕層の所得が増え、その投資先として土地や株が大幅に上がり、いわゆるバブル景気に突入した。 この時代は品物があれば何でも売れ、円高によりエネルギーや原材料の価格も下がり、企業の業績が上がったことから会社経費で物が大量に消費された。 連日のように銀座のクラブは満員となり、大企業はアルバイトにまでタクシーチケットを出し、日本中に金が溢れかえっていた。 高級時計もその恩恵を大きく受け、ダイヤが多く入った時計や複雑時計など、高ければ高いほど売れた時期でもあった。 しかしながら1990年(平成2年)土地の総量規制に始まり、金融引き締めで信用不安が瞬く間に拡がり、株価も9ヶ月余りの間に半分まで下落し、あっという間にバブルは破綻した。

昭和64年1月7日に昭和天皇が崩御された。 戦後44年が経っているとは言え、近衛兵として天皇陛下をお守りする役であった父も、どういった思いでいたのだろうか? 会社も恒例の新年会を翌1月8日に予定していたのだが、急遽中止とした。 昭和64年は僅か7日で終了し、1月8日からは平成元年となった。 昭和天皇が崩御された途端、あれだけ浮ついていた日本が翌年からバブル崩壊へ向かって一直線に突き進んでいった。 戦争という特殊の時代に、一般国民が皆日本が永久に勝ち続けると信じ、一つの方向に突き進んで行ったのと、バブルに浮かれて永久に経済が上昇するような錯覚を抱き、皆同じ方向に向かっていった事が不思議にダブってしまう。 昭和天皇がご自分の崩御によって、日本人にもっと地を足に付けなくて行けないことをお伝えになったのではないかと思うほどのタイミングであった。

日本アカデミー賞や、巨人軍年間MVP賞だけでなく、ショパールのイメージからするとちょっと意外だが、探検家の故植村直己氏が生前の北極単独犬ぞり探検の際に特別ウォッチを製作した。北極では氷点下マイナス52度という極寒の気象条件であり、普通では金属と人の皮膚がそのままくっついて離れなくなってしまうのを防ぐ為の革バンドを開発した。 また巨人軍の王貞治選手が通算800号のホームランを達成した記念に、紳士物時計の中に「800」とダイヤで文字を作り、オニキス文字盤の上で、その周りを8個のダイヤモンドが動くハッピーダイヤモンドウォッチを製作して贈呈した。 その後も王氏が監督に就任後も、またコンコルドの頃から懇意にして頂いていた青木功氏がシニアになってからもご協力頂き、お二人は新年会の常連になって、マジックショーのお手伝いをして頂いた事も有った。

時計業界最大の展示会であるバーゼルフェアが毎年4月に(年によって若干ずれることもあるが)スイスのバーゼルで行われている。 メーカーによっては年間生産量の50%〜80%をこの8日間の会期中に注文を受けるという程重要な場所で、各社は毎年バーゼルフェアに合わせて新作を発表するのが通例になっており、その年の傾向や流行を測る為にも重要なフェアであり、私もヨーロッパに住んでいた時以降、新作の発注だけでなく、毎年必ず訪問していた。 以前はカルティエを中心とするリッシュモングループ各社もバーゼルフェアに参加していたのだが、同時期でバーゼルフェアの少し前に、ジュネーブで独自のフェアをジュネーブサロンとして開催するようになり、現在ではリッシュモングループのブランドも増え、毎年1月に大規模に開催するようになり、同時期にフランクミューラーのウォッチランドグループや、バーゼルに出展していないジュネーブ近郊のブランドなどがジュネーブで展示会をおこなっている。

ミッレミリアというのはクラシックカーの公道を使ったレースで、1927年から1957年まではスピードレースとしてイタリアで開催されていた。 ブレシアという北イタリアの町を出発し、アドリア海のフェラーラを目指し、アドリア海沿いに南下してサンマリノ共和国を経由してローマに入り、ローマから一気に北上して、シエナ、フィレンツェ、ボローニャなどを通りまたブレシアに2泊3日で1600km(元々ミッレミリアというのはイタリア語で1600kmという意味)を走破する過酷なレースである。 1957年に大きな事故があり一時中断されていたが、1977年にタイムラリー形式で復活し、ショパール社は1988年からメインスポンサーとして参加者に時計を提供している。 ショイフレ現会長もカール・フレドリッヒ現社長もそれぞれ参加もしており、1992年にはカール・フレドリッヒは当時F1フェラーリのドライバーのジャン・アレジと組んでレースに参加した。