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西村社長のコラム100
Angelo's BLOG

 

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会社設立当初から毎年新年に新年会を催していたのだが、最初は社員の慰労会の様な形で開かれていた。昭和40年に大阪支店をオープンした後は東京本社と大阪支社の交流会の形で熱海、伊豆、浜松などで行われていた。 その後、規模も徐々に大きくなり、日頃お世話になっている取引先の方々もお呼びしようという事になった。 更に、その取引先の方々から、展示会も一緒にしたらどうかという声を戴き、展示会も併設し、一部として展示会、二部として講演会、三部として懇親会としての新年会となった。 年々規模も拡大していき、1200〜1300人規模にまで拡大するようになると、顧客の中にも毎年この新年会に出席するのを楽しみにして下さる方も出来、三部の懇親会はタレントを入れた盛大な会になり、当時やはり父と親交が深かった福田赳夫元総理は必ず毎年ご夫婦で参加いただけるようになった。 この会は販売や顧客サービスと共に、会社の外に向けてのアピールという意味でも大変重要な意味を持つ会となった。

昭和40年代の後半から、グランドフェアーという名称で東京と大阪で春と秋の合計年4回、扱いブランドの総合フェアーという形での展示販売会を催す様になり、グランドフェアーと新年の展示会の年5回の会が長い間会社の営業活動上の大きな自社イベントとなった。 ホテルの宴会場を借り、オープンテーブルにディスプレイを置いて、時計を陳列するのだが、高価な時計を手にとって見易いように全てオープンで陳列した。保安上の不安も若干あったが、招待客は小売店や百貨店の担当者、身元がはっきりした小売店や百貨店の顧客のみであったこともあり、実際は盗難、紛失等はほぼ0であった。 それでも後年は保険会社からの要請もあり、個々の商品に必ず盗難防止のタグセンサーを付け、更にガードマンを配備したりケースに入れたりをせざるを得なくなってきたのは残念であった。

昭和50年の10月、FH(スイス時計製造者連盟)から父に対して、長年のスイス時計の日本における紹介と発展に寄与したという事で、感謝状が送られた。 元々陸軍士官学校から職業軍人として近衛兵となり、戦後全く手に職もなく、商売の知識もない中で、昭和24年の会社設立以来25年以上に亘ってスイス時計一筋に歩んできた事が評価された訳で、私の入社直前の出来事であったが、父も大変に喜んでいたことを覚えている。 父は口には出さなかったが、基本的に飛行機が大嫌いで、何故あんな鉄の塊が空を飛ぶんだといつも信じていないタイプの人だった。スイスに行く為には現実的には飛行機に乗らざるを得ず、いつも渡欧時は生きた心地がしなかっただろう。特に会社設立から暫くの間は一般人の外国への旅行そのものも著しく制限されており、出発時は今では考えられないが、社員の殆どが羽田に集合し、まるで宇宙飛行士が旅立つ時の見送りの呈だった。

私は昭和51年の4月に入社した。 私は父が33歳の時に生まれ、当時としては歳をとってからの息子であったことと、父は戦後間もない頃のヘルニアの手術の後遺症で片足に血行障害があったり、消化器系など二度の手術をしたり、健康面でそれ程タフではなかった事も有り、早く私を一人前にしたい希望が強く、大学を卒業後、他の会社で他人の飯を食うこと無しに、直ぐに入社することとなった。 よく、いつから後を継ごうという気持ちになったか訊かれたが、兄弟姉妹の中で男は私だけだったことも有り、自分では余り意識したことはなかったが、恐らく中学生ぐらいの時から漠然とそう思って、或いは思わされていたような気がする。 まずは総務部、経理部の中で会社の全体の流れを教わり、欧州に暫く住んで帰国後、営業、広報、商品などの各部でそれぞれの仕事を学んだ。  

丁度入社した年の春のグランドフェアーに、思わぬ客人が現れた。 当時銀座の和光とだけ若干の取引をしていたが、日本で全国展開の為に本格的に代理店を探していたショパール社の営業、ロルフ・クーシェル氏が商工会議所の紹介と当社の役員の問い合わせで、全コレクションを持って来日した。 東京のグランドフェアーはもう終了し、大阪のグランドフェアーの直前であったが、コレクションを一目見て、他のブランドと違う独創的なデザインに直ぐ魅了され、大阪のフェアーに急遽テーブルを出し、ディスプレイ等もないので、持ち運び用のトレイのまま展示会場に陳列した。 その時の顧客の反応も見て、そのまま直ぐ扱おうという決断を東京に残っていた父に伝え、あっという間に取引を開始する事になった。 決断した理由の一つは勿論コレクションそのものだが、同じくらい、もしかしたらそれ以上の理由だったのが、ロルフの人柄と熱心さであった。  

昭和51年秋に正式にショパール代理店契約締結によりショパール発表レセプションが東京と大阪で行われた。 ショパール社からはカール・ショイフレ社長とクーシェル氏がコレクションと共に来日し、その後ショイフレ社長の奥様のカリンさん、息子で現社長のカール・フレドリッヒ、娘で同じく現共同社長のキャロラインといったショイフレ一家と西村ファミリーの付き合いが始まることになる。 彼らとの付き合いは仕事を越え、言葉も満足には通じないながらも父とショイフレ社長との間にも友情と絆が結ばれていく。 更にロルフとはお互いにブラザーと呼び合う中になり、私の父をマイファザー、母をマイマザーと呼ぶようになる。 訳あってロルフはその後一時ショパール社を離れることになるが、後日またショパール社に復帰することとなる。

ショパールとの取引が始まった同じ年の秋口に、また新たな訪問者があった。 ミシェル・エルブランというフランスのブランドで、価格帯は2〜4万円台が中心の時計であった。 それまで価格帯の安い時計は良くスイスのお土産物屋で見かける蓋の付いたバングルウォッチのチャンドラーというブランドを若干扱ってはいたが、本格的にこの価格帯の商品を扱うのは初めてであった。 ただ、この取引は10年も経たずに終了してしまうのだが、ミシェル・エルブラン社の考えが段々高級よりになって来て、オメガをライバルとして想定しだすなど、我々の考えと違う方向に向かってきてしまった事もあるが、我々サイドも、パテックやショパールといった高額時計とこういった価格帯の時計を営業上も混在して取り扱ってしまったのも原因だろう。  

腕時計以外にも会社は宝飾品のPPP(スリーピー社)とクロックのエリオット社の代理店業務をしていた。両社ともロンドンに本社を置くイギリスの名門メーカーで、PPP社は自社製品の他にダンヒル向けにカフスなどの製造をしていた。 エリオット社は長年作り続けている木製のホールクロックやテーブルクロックを中心に展開し、社長のエリオット氏は、ビッグベンの時計の調整も全て任されていたイギリスクロック連盟の重鎮で、PPP社の社長のパイク氏とともに、 如何にも英国紳士然としたタイプのとても暖かい人柄のお二人だった。 後の欧州留学の際もお二人には公私にわたって本当にお世話になり、ロンドンでの住宅の探索と契約も、私自身まだ英語力も怪しい時期だったので、PPP社のパイク氏の手助けがなければ、相当大変な事になっていたのではと思う。 ロンドンではお互いの家を行き来しながら、頻繁にお会いして、英語や英国の文化を知る面でもお世話になった。

入社後1年が過ぎ、英語力のアップとヨーロッパの各メーカーとの関係を深める為に1977年春から約1年半、イギリス、スイスに留学をした。 まず、ロンドンで8ヶ月ほど滞在し、英語の学校に通いながら当時ショパールをロンドンで大きく扱っていた、ナイツブリッジのハロッズ百貨店の横にあるクチンスキーという宝飾店でお世話になりながら、英語の会話力を付ける事を主に生活をした。 滞在期間が8ヶ月ほどであったので、大学出の一般の人の英語レベルからでは全ての英語力を身につけようとすると全て中途半端になってしまう恐れも有り、社内では読み書きに堪能な人もいたので、主に会話に注力した。 毎日午前中、語学学校に通っていたのだが、実はその語学学校と提携の一般家庭にホームステイという形で過ごす予定であった。 ところが、日本を出発する前に聞いていた語学学校の内容と現地の内容に大分違いがあり、学校を変わることになった。その為にそこの家庭を出ざるを得なくなり、アパートメントを探す事になり、思いがけず一人暮らしが始まった。

1977年当時は日本に関する情報はヨーロッパに殆ど発信されず、ヘラルドトリビューン紙を見ても、日本の話題はあっても中ページにほんの小さい記事しか見つけられなかった。 しかし、ヨーロッパの人たちは歴史もあり、自分たちと随分違う異国である日本というものに興味があり、何かと歴史、習慣、風俗など色々訊かれる。 ところが、それに答えられない自分に気づき唖然とすることとなる。 結局、日本から新たに日本の事を改めて知る為の本を何冊も送ってもらい、ロンドンで日本の事を勉強する事になった。 ただ、その事が自分にとって日本を見直し、日本を好きになる大きなきっかけになり、その後もヨーロッパ文化の時計を日本に紹介するだけでなく、日本文化を忘れている日本人に、また他の東洋や西洋に日本の文化を伝えたいとう希望が強くなってくる。