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西村社長のコラム100
Angelo's BLOG

 

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私がヨーロッパに滞在していた間に、義兄が入社することになった。 義兄は広告代理店の電通に10年強在籍していたが、その経験を生かして広報の責任者として一新ファミリーに加わった。 私と同じマンションに彼もまた住んでいたので、朝はほぼ一緒に通勤し、昼も一緒に食べることも多く、出張も一緒に行くことも多かったので、良い事、悪い事、多くの事を義兄から学んだ。 一年半の間、毎週日曜の朝、横浜まで行き一緒にゴルフのレッスンを受け続けたが、当時丁度同じ様な腕前だったことから、お互いを意識しながらだったので、途中でやめずに二人とも続ける事が出来たのだと思う。 彼は186cm、85kg(当時、後に100kg+)の巨漢で、ジャンボ尾崎を彷彿させる風貌をしており、電通時代に培った人脈や情報でそれまで余り得意分野でなかった社の広報に新しい風をもたらした。  

日本でもアメリカのアカデミー賞にならい、映画人が投票して最高の映画を選ぶ日本アカデミー賞を創設するという情報が義兄の元に届き、早速その副賞としてショパールを贈呈する事が決まった。 しかしながら映画人の中にもこの賞をアメリカの物まねと疑問視する声があり、最初の2〜3年はあまり盛り上がらず、日本テレビの独占放映だったこともあり、他のテレビ局が積極的に取り上げることもなかった。 しかし年月の経過と共に徐々に日本最大の映画の賞として認知されることになり、我々は各賞の最優秀賞受賞者と、新人賞、特別賞などにショパールの時計を提供することとなった。 毎年春先に受賞式が行われるが、受賞式にもユーザーをお連れしながらそれに合わせて展示販売会を催し、普段身近に見ることの出来ない沢山の映画俳優、女優と会えることから大変好評を頂き、大きく販売に貢献する事が出来た。 我々が思った以上に受賞式の放映を観ている人も多く、受賞式後は暫くの間、ショパールの商品提供の話題をつづけることができた。

まだ時計の輸入が自由に出来ない頃に父や、同じように事業を始めた酒田時計貿易の酒田氏、平和堂時計貿易の高木氏、村木時計の村木氏などを始めとする時計輸入業者の集まりである社団法人時計輸入協会が作られた。当時はまだまだ関税の問題や諸許可を得る問題などが山積みしていて、役所との交渉も一企業が行うより、社団法人格の団体がすべき事も多かった。 父は当初から理事として協会の役員を務め、他の理事の方々と一緒に時計輸入に関する諸問題の解決に取り組んだ。 初代の理事長は衆議院議員の始関伊平氏が就任したが、二代目以降は、内部の理事から選挙によって理事長が選ばれる方式になった。 この協会の当初の理事の方々にゴルフ好きな方が多く、今でも継続して年に四回、現在では160回以上に亘り親睦ゴルフコンペが行われているのだが、ゴルフをしない父の代わりにコンペだけは私が入社早々から参加するようになった。

戦後長く、輸入と日本での販売拡大に努めた結果として、父は各方面から勲章や表彰状をいただくことになる。 時計輸入協会の理事長を二期に亘って務めた後、昭和55年には長い間の輸入商社としての業績と、時計輸入協会の理事、理事長としての貢献を認められ、藍綬褒章を受章した。 昭和58年には日本とスイスの修好120周年を記念してスイス産業に貢献した日本企業への表彰が行われ、国家表彰で勲二等にあたる感謝状が贈られた。 その後、昭和60年には10年前の感謝状に続き、再びスイスFH(時計製造者連盟)から感謝状を贈られ、昭和62年には製品輸入の拡大、貿易貢献の功績によって通産大臣表彰をいただいた。 4月29日の藍綬褒章の受章と6月2日の誕生日祝いを兼ね、社内でパーティーが開かれたが、戦時中、近衛兵として天皇陛下をお守りする任についていた父にとっては、天皇誕生日に藍綬褒章を受章出来た事は特別の事で有ったであろう。

社員の懇親、取引先との懇親、展示会、ユーザーの皆様の参加と変化していった新年会も年々規模が大きくなり、最後は1500人規模の大きなお祭となった。 父が懇意にして頂いていた福田元総理ご夫妻、スイス大使は必ず出席して下さり、巨人軍年間MVP表彰の表彰式を新年会の会場で行うことになってからは、毎年巨人軍の前年に活躍した投手と野手の二名が参加するようになった。 歌手のショーやマジック、物まね、お笑いなどの芸物もいれ、元々のパテックファンでいらした北島三郎さんも自分たちのファミリー総出でショーをして下さり、時計のイメージからするとジャズやクラシックなのだろうが、顧客の年齢層と趣向的に演歌が一番好まれたので、殆どの大物演歌歌手のショーがおこなわれた。 ショーと併催で別室では縁日、カジノなどを用意し、毎年出席を楽しみにしてくださる販売店、ユーザーの方も大変多かった。

私にとって、毎年年末になると頭の痛い問題が、新年会での挨拶であった。 社長に就任する前から、父から私がスピーチをするように言われ、今思うと、きっと父もスピーチの重荷から早く解放されたかったのだと思う。 個人的なこだわりで、紙に書いたものを読み上げるだけの挨拶はしたくなかったので、最初の頃はきちんと原稿を作り、何度も練習をし、原稿を記憶して当日に望んだものだったが、何年経っても1000人以上の人々の前でスピーチをすることは決して慣れる物ではなかったし、いつも緊張していた。 それでも、その後は原稿を一字一句覚えるのはやめて、話す内容の大まかなところだけ覚え、その内容はある程度その場に任せる事も出来るようになった。 完全に記憶に頼ってしまうと、一ヶ所出てこなくなると、その後の原稿が真っ白になってしまうし、より緊張度が増してしまうので、この方法にしてからは、若干ではあるが気持ちが楽になった。  

1980年前後、スイスの大手商社のUTCの日本支社のUTCジャパンがコンコルド時計の代理店となり、販売先を探していた。 当社はUTCジャパンと契約を結び、独占的にコンコルド時計の日本での販売をする事になった。更に義兄がUTCジャパンに当時コンコルド青木と呼ばれていたゴルフの青木功プロを紹介し、コンコルド時計と正式に契約を結んだ。 当時、丁度刷新工事が必要だった本社屋上のネオン塔を4面パテック・フィリップから2面をコンコルドに変えるよう父が提案したが、実は私はそれには大反対で父と大きく意見を異にし、私と同意見の商品部長と私は「コンコルドからはずす!」と父から言われた。私は2面を変えるならあくまで我々のメインブランドの一つのショパールを優先すべきで、サブエージェントのコンコルドではないと信じていた。結局コンコルドはUTC本社の経営方針の変更等があり、本社が扱いをやめてしまい、当然のように日本支社の扱いもなくなり、自然消滅して、ネオンもその後ショパールに変わった。

1985年(昭和60年)にショパール社は創立125周年を迎え、スイスで大々的に125周年パーティを開き、私もスイスのパーティーとその後のイベントに出席させてもらった。 当時1880年代に運行されていたオリエント急行が復元され、相当話題になっていた時期だったが、圧巻だったのは、ジュネーブからバーゼルまでショパール社がそのオリエント急行を貸し切り、世界中から訪れた沢山のゲストをもてなした事だった。 丁度バーゼルフェアの時であったので、本当に多くの人々が集まり、独特の雰囲気の内装と外装を持ったオリエント急行に貸し切りで乗れる機会はそうあるものでなく、皆バーゼルまででなく、本当に昔のようにイスタンブールまで乗っていきたいという声が多く上がっていた。 これも中々経験できない素晴らしい思い出の一つになった。

父が販売店のオーナーをお連れしてのスイスツアーに同行した時に、前から自分用に注文していたショパールの時計が出来上がり、現地で受け取った。 直ぐに手にはめた父は、周りの日本の販売店のオーナーの方々に見せると、当然「素晴らしいです。よくお似合いです」という声を貰った。気を良くした父はブレスまでホワイトゴールド、ダイヤ取り巻き、ブルーダイヤルの紳士物時計を(因みに日本での価格は720万円)20本現地で注文した。 ショパールが驚き、本当に良いのか確認してきた。それを聞いた商品部長も驚き、直ぐ私の元に相談に来た。直ぐに独断で20本から5本に減らしたが、その5本も結局通常では1本も売れず、販売した人に他のショパールを差し上げるというキャンペーンをしてやっと1本販売する事が出来た。父も、後にそれを知って、商品選びは年寄りが出るべきではなく、若い人に任せるべきだと思ってくれたようで、その後は商品選びには一切口を出さなくなった。

1986年(昭和61年)に私は社長に就任した。 父は大正10年生まれで、まだ65歳だったが、何度か健康を害したり、足が悪かったりと自分の肉体年齢は実年齢+10歳ぐらいに考え、あまり自信がなかったせいもあり、自分が70歳前にはっきりと社長に就任させたかった様だ。 社長になってみると自分の居場所が違ってきているのを感じた。仕事の内容自体は副社長時代と大幅に違う訳ではないが、名刺交換しても相手の反応も態度も違い、改めて責任の大きさを実感した。 会長職になっても社長と副社長が名前だけ会長と社長になっただけで、仕事自体は全て会長が取り仕切っているという話しもよく聞くが、父は基本的に経理と人事以外は全て任せ、営業的な事への口出しは殆どしなかった。 むしろ、私が心配したのは父が急に老けこんでしまうのではないかということだったが、60歳ごろから趣味として始めた絵を描くことに時間を使い、創作意欲をかき立てる絵画と出会えたことが老化に繋がらずに済んだようだ。